おんじょどいの小屋

小学校時代の思い出

名山小学校

小学校は名山小学校に通った。
当時は長田中学校と同じ敷地内にあったが、現在は違うようだ。
私の住んでいた呉服町は学区の外れで、子供の足で30分はかかった。
名山小学校では学年毎に城山登山マラソンが実施されていたが、父に事前特訓を受けていたお陰で私たちは結構良い成績を残せていた。
城山では放課後チャンバラごっこをやったり、秘密基地を作ったりして遊んだものだ。

火傷

小学校1、2年の頃、鍋に入った味噌汁を運んでいてコケて顔半分に火傷を負った。
当時鹿児島で火傷治療に関して名医と評判の草牟田の病院に通ったところ、全く痕が残らず完治したのは感謝の限りだ。
折角のヨカニセが台無しになるところだった。

洗礼

母がクリスチャンだったので幼い頃は日曜日にはザビエル教会へ出かけた。
小学2、3年の頃、父と姉と妹と4人で洗礼を受けた。
呉服町に住んでいた頃は結構教会にも通ったが、鴨池町に越してからは教会に遠くなったこともあり、足が遠のいた。

 
洗礼

洗礼式

 
洗礼

4人で洗礼を受ける

チャップリン

娯楽の少ない終戦後で唯一の楽しみは年に数回の中央公民館での映画鑑賞だった。
ある時、チャップリンの無声映画が上映されて観に行った時のこと、父が気が狂ったみたいに大笑いしていたのが印象に残っている。
日頃あまり笑うことの少ない父が、そんなに面白いとも思えないドタバタ喜劇を観て声をあげて大笑いしていたのは初めて見る異様な光景だった。

T先生

4年生のときの担任はT先生で、ある日の授業で「第2次世界大戦を日本が引き起こしたのは軍部の暴走と言われているが、 当時は欧米からの経済ブロックで経済的に行き詰まりアジアに進出するしか生き残る道がなかった」というような話をしてくれた。
この話はいまでも覚えているくらい印象深く、その後の私の思想形成に大きく影響したと思う。

遠足

4年生の遠足

夏休みの宿題

夏休みの宿題はいつも夏休み終わり間際にやっつけるのが通例だったが、5年生のときは絵の宿題をやり残して2学期に入ってしまった。
宿題を提出しろとという先生に「描いたけど持ってくるのを忘れました」と言ったら、先生は勘弁せず「取りに行って来い」と言った。
描いてないものは取りにいけないが、嘘を言ったのがバレると余計怒られるので、家に帰ってあちこち探して妹が以前描いた絵を持っていった。
その絵がなんと夏休み作品展で金賞に選ばれるというオチがついた。

運動会

運動会

受験勉強

4年生のときに次の年からラ・サール高校に中学校が併設されることになり、母は「勉強してラ・サールに行け」が口癖になった。
成績は常に上位ではあったが一番ではなかった。なぜなら勉強が嫌いであまり勉強しなかったから。
5、6年のときの担任は教育熱心で野心家のN先生だったので、ラ・サール受験希望の5名は放課後の補習や夏休みの合宿など徹底的にしぼられた。
ある日、補修授業を受けた帰りに下駄箱のところで「僕はションベンをせにゃならん」と変な節をつけて歌っていたら、 N先生が聞きつけて何故か烈火の如く怒り、「ちょっと来い」と教室に引っ張り込まれて、足がらをかけられたり、 腰投げで転ばされたりと手酷い体罰を受けた。

受験が近づくと夜は早めに寝て、4時頃起こされてまた別室で朝まで勉強という毎日だったが、何のことはない、 ただ寝る場所を替えるだけで机に突っ伏して爆睡していた。

 
クラスメイト

クラスメイト

 
修学旅行

修学旅行

合格発表

あまり勉強熱心ではなかったので受験組の5人の中では本命視されていなくて、先生もそれほど期待はしていなかったと思うが、 入学試験は思ったより難しいと感じなくて、割りと出来た感触があった。
合格発表は父と見に行ったが、合格を知ると私以上に父は喜んでくれた。
当時のラ・サールは校庭の脇は遠浅の海だったのだが、父は浜辺に行って人目を避けて泣いていた。
帰りにはご褒美のつもりか「これから鴨池動物園に行こう」と言い出した。
私は学校に戻らなくてはならなかったので断ったが。

ラ・サールは県外からの受験者が多く、合格者も県外のほうが多くて、県内では一つの小学校から一人合格すれば良い方と言われていたが N先生のクラスから5人受験して私とI君とT君の3人が合格したので、先生も大いに面目を施したようだ。