おんじょどいの小屋

20代の思い出

トヨタ家庭用品販売

鹿児島に帰って就職活動をしたが、事務職だとソロバンができないのがネックで直ぐには就職先が見つからず、 母が営業として働いていたトヨタ家庭用品販売㈱に集金人として採用されることになった。
この頃のトヨタ家庭用品販売㈱は月掛けで家庭電化製品などを販売するシステムを採用しており、 県内各地に顧客がいて集金人が必要だったのだ。
私の前任者は市内から離れた遠くの顧客ばかりが担当だったらしく、私も50ccのホンダカブに乗って枕崎あたりへも集金に出掛けたが、 500円、1000円の集金に遠くまで出かけるのは割に合わないと思った。
給与は歩合制で、月毎の集金率により歩合が高くなるシステムだった。
前任者の集金率が悪かったので初めのうちは結構いい給与になったが、安定してくると苦労の割に報われないと感じるようになったので、 一年もせずに辞めた。

カブ号

ホンダ カブ号

ピアノ購入

この頃は田上町の借家に住んでいたが、この狭い家にピアノを買った。
十字屋に中古のピアノでも買おうと思って行ったら、接客してくれたNさんにうまく言いくるめられて新品のしかもU3Hをローンで買ってしまった。
Nさんもさすがに心配になったのか納品前に家を確認に来た。
レコードを聞きながら結構熱心に練習したので、独学でショパンのノクターンが弾けるまでに上達した。

調律見習い

新聞広告で本坊調律所で調律見習いを募集しているのを知り、ピアノを買っことで調律という仕事を知って興味があったので応募した。
見習いなので給与はその頃支払っていたピアノのローン代金と同じくらいだったが、将来性があると思って就職した。
本坊さんが調律をやるのを聴いて覚えるということなので、一生懸命聴こうとするのだがどうしても眠くなってついついコックリすることもしばしばだった。
本坊さんは職人気質で、腕は達者だが気難しいところもありなかなかついて行くのはたいへんなところもあった。
また本坊さんは焼酎好きで、お客に勧められると昼間でも断らず、飲酒運転で帰ることもしばしばだった。

当時の調律料の相場は大工さんの日当分相当とのことで、一日3件ばかり仕事があれば結構いい稼ぎになるが、時として仕事が途絶えることもある。
3年ばかりが経過して、ある程度調律のやり方も覚えて独り立ちできそうになった頃、少し仕事が途絶えることが増えてきて、本坊さんから十字屋に移籍しないかとの話が持ち上がった。

十字屋に勤務

十字屋は県内最大の楽器店で手広く商売をやっていたので同年代の従業員も多く、十字屋に勤務した3年間はまさに青春時代を謳歌した3年間だった。
遊び好きの先輩がいて、よくグループであちこち遊び歩いた。
その先輩にパチンコも鍛えられ、私もパチンコにのめり込み毎晩パチンコ屋に通うようになって、パチンコの腕が結構上がって給料と同等くらいの稼ぎができるようになった。
パチンコはたまに行くから負けるんであって、毎日行けば必ず勝てるという自信がついた。

 
十字屋

遊び仲間

 
十字屋

社員旅行

運転免許

十字屋に入ってしばらくして、やはり運転免許が必要だということで教習所に通い始めた。
教習所といっても自動車学校ではなく、1時間単位で教習を受けるタイプで、免許は試験場に行って実技試験に合格しなければもらえないのだ。
実はその前から無免許で運転はしていたので、何度か習えば試験に合格するのではという甘い考えがあった。
丁度その頃、社員の一人が車を買い換えるので下取りに出す値段で買わないかという話があったので、免許は持ってなかったがマツダのバンを買った。
父も自動車学校に通って免許を取り、牛乳配達でその車を使った。
私も姶良市の運転免許試験場に何度か受験に行ったがなかなか合格できなかった。
フリーで受験に来る奴は無免許運転してるのが普通だから、試験官も厳しいらしい。
お見通しのように試験場へも毎回無免許運転で行ったのだから図々しい。
7回目の受験でようやく合格したが、合格が決まった途端に車を運転して帰るのが凄く怖くなって、よっぽど車を置いて帰ろうかと思ったほどだった。
これで捕まったら今までの苦労がパーになってしまうので、いつになくビクビクしながら帰った。

ヤスエとの出会い

十字屋のレジに新しい子が入ってきた。
レジを任されるだけあってしっかり者といった感じの娘で年上かと思うほど落ち着いた娘だった。
私は冗談を言ったりして少しずつアプローチをしてとうとう付き合うようになった。
社員旅行で四国に行ったときなど、バスの中は自然といくつものカップルが出来上がっていたが、私たちもいつも一緒で思い出深い旅行となった。
二人で別府・熊本を回る旅行に行ったのも楽しい思い出だ。

段々お互いに結婚を意識するようになったある日、「父や兄に会ってほしい」とのことだったので彼女の実家に出向いた。
お義父さんとカズアキ義兄さんと名前は忘れたが大叔父という人とがいた。
その大叔父さんが結婚に反対な様子で、いろいろ難癖をつけた挙句「どこの馬の骨ともわからん奴にヤスエはやれん」とまで言われたので、 頭にきて余程席を立って帰ろうと思ったくらいだ。
後で聞いたところによると、反対していたのは実は義兄さんで、自分では言えなくて大叔父に代弁を頼んだらしいとのこと。
私が帰った後、ヤスエがみんなを説得して最終的にはオーケーを貰ったとのことだった。

ヤマハでの研修

調律師は特に国家試験があるわけでもなく、メーカーの調律学校に入って資格を得るのが普通だったが、私の場合は本坊さんに弟子入りして 調律を覚えたのでヤマハとの接点が全くなかったので、調律課長が浜松工場での2ヶ月の研修をアレンジしてくれた。
住まいは浜松工場の寮で、工場の若い人たちと一緒に生活した。
研修といっても私一人なので、工場でひたすら調律をして先生代わりのベテラン技術者がチェックしてくれるという形で孤独な作業だった。
そんな状態なので他の人との交流が少なく、また私自身人見知りなほうなので工場でも寮でも友達はあまりできなかった。
土日は休みだったので、一人でオートレースやボートレースを楽しんだが、それがやみつきになり、公営ギャンブルのない鹿児島がつまらなく思えてきた。
途中入社だったので給与が2つ下の後輩より安かったというのも不満だった。
パチンコで給料分くらい稼いでいたこともあって、仕事がバカらしくなってついに退職して上京することに決めた。

ギャンブル

上京するにも大して貯金はなかったので、半年くらいは失業保険を貰いながら毎日パチンコに通って生活費を稼ぎ金を貯めた。
ヤスエには東京で就職できたら結婚しようと約束して、当時乗っていたマツダファミリアで東京へ一人旅立った。

途中、福岡ボートレースと浜名湖ボートレースで寄り道しながらの上京であった。
東京に着いたら妹のマリが大田区のアパートから川崎へ引っ越したのでその後を借りた。
そこでは朝起きると近くの喫茶店でモーニングを食べながらスポーツ紙の公営ギャンブルの開催地を調べて、中山競馬場や平和島ボートレース、 京王閣競輪場など各地の公営ギャンブル巡りの毎日だった。
しかし、そんな生活が長く続くはずもなく、段々懐が寂しくなってきたので就職活動も始めた。
調律師としての求職広告を読売新聞に出したところ、大田区でピアノを教えているT先生から連絡があり、自宅のピアノを調律するとともに、 先生が出張で何人かの生徒を教えている茅ヶ崎に同行して先生が勧誘してくれた家庭の調律を何軒か世話してくれた。

マツダファミリア

マツダファミリア

埼玉の楽器店へ就職

求職広告では反応がなかったので銀座のヤマハ東京支店に求職の相談に行って、後日調律の実技試験を受けてから、 埼玉の楽器店を紹介してもらえることになり、東京支店でI社長と面談をして採用になって2日後にお店の近くのアパートに引っ越した。
6畳一間に狭い台所兼玄関つきの汚いアパートでトイレは共同だったが、ここでヤスエと結婚して新戸籍を作ったのでここが我が家の本籍地になっている。

I社長は一代で楽器店を創業し、埼玉でも中堅のヤマハ特約店に育てあげた人なのでやり手の経営者だったが、ラ・サールの名前が効いたのか私をすごく高く評価してくれた。

マリッジブルー

埼玉の楽器店での給与は十字屋のときの倍以上貰えたので、二人でも十分食えるので直ぐに結婚してもよかったのだが、 仕事にも慣れて2、3ヶ月たつうち何かこのまま結婚していいものかという不安や疑問に囚われて、結婚に対する前向きな気持ちが段々薄れていった。
いわゆるマリッジブルーというものらしいが、その気持が抑えられなくなってとうとうヤスエのお父さん宛に婚約解消の手紙を出してしまった。
数日後の夕方、お客さんからだと呼ばれて電話に出ると名古屋のタケト義兄さんからで、「近くに来てるからちょっと話ができないか」というのでスカイラークで会うことにした。
スカイラークに行くとなんとヤスエも一緒だったのでびっくりした。
そこでいろいろ話をしたが結論が出ず、アパートに行って話を続けたが遅くなったので、義兄さんは猫に鰹節を与えて帰ることになってヤスエと二人取り残された。
そうなると結果は当然の成り行きで、元々嫌いになったわけではないのでその夜から同棲することになった。
翌日、社長にそのことを告げるとすごく喜んでくれた。
早速ヤスエは洗濯機や茶碗皿などを買い込んできておままごとのような新生活が始まった。
雨降って地固まるではないが、以前にも増して愛情が深まったような気がする。
ただ、一時の気の迷いとはいえ、あのような手紙を出してしまったことは今でも後悔している。

休職

10月のある日、母から電話で父がバイクの事故で足の骨を折ってしまったので、治るまで牛乳配達を手伝ってほしいということだった。
勤めて3ヶ月ほどで1ヶ月ばかりの休みを貰うのはとても心苦しかったが、社長に話をすると快く了承してくれたので、翌日ヤスエを伴って車で鹿児島に出発した。
1ヶ月ほど鹿児島に帰るのであれば東京に戻る前に向こうで結婚式をやろうということになり、ヤスエが主に段取りをつけて11月22日に行うことになった。
鹿児島に帰っている間に楽器店から給料が送ってきた。
全くあてにしていなかったので驚くと同時に感謝の気持ちでいっぱいになった。

結婚式

キリスト教式で結婚式を挙げることにしたので、ザビエル教会の七田神父にお願いした。
仲人は本坊さんにお願いして、結納にも同行して貰った。
結納金も私は持っていなかったので、内緒でヤスエが自分で出したのだ。
式には十字屋の調律仲間や親しくしていた同僚、タモツ叔父さん(父の弟)もわざわざ博多から奥さんともども参加してくれた。
結婚式の翌日埼玉へ戻ったが、新婚旅行代わりにあちこちで観光しながら帰ることにしていたので、長崎観光をして、 博多でタモツ叔父さんの家に一晩お世話になり、山口の秋芳洞、島根の出雲大社、鳥取砂丘を経て、名古屋のタケト義兄さんのところに寄って埼玉に戻った。

マツダロータリークーペ

鹿児島に帰ったときにはフャミリアセダンに乗っていたが、鹿児島でロータリークーペに買い換えた。
燃費は悪かったが馬力があってスタートダッシュは最高だった。
交差点のトップで並ぶと他の車がスタートダッシュの競争を挑んでくることが多々あったが、一度も負けたことがなかった。

一度など、長い上り坂で長い車列ができていたとき、速度はそれほど遅くなくて60kmくらいだったが、 真ん中あたりにいたサニークーペが追い越しをかけ始めたのを見て最後尾の私も追い越しをかけた。
サニークーペが先頭の車を追い抜いて左側車線に戻ったところを私のロータリークーペが右側から追い越して、 さらに差を広げて走り去ったときほど気持ちよかったことはない。

ロータリークーペで埼玉に戻ると皆驚いていたが、燃費は悪いし、エンジンオイルは最高級のものを入れなければならなかったので社長はイヤな顔をしていた。
ロータリークーペで営業のFさんと相模原に納入調律に行ったときのこと、帰りにトレーラーにぶつけられて道路脇に弾き飛ばされて車は動かなくなってしまった。
近くのマツダのディーラーに車を牽引してもらって修理したのだが、直ったといって持ってきた車が直っていなくて再度修理に出した。
次に車を持ってきたのはぶつけたトレーラーの運転手だったが、車の事故で火傷したとのことで顔中に包帯を巻いていた。
私の事故のときもそうだったが、運転の荒っぽい奴なのだろう。
仕事ではガゾリンとエンジンオイルを会社持ちでロータリークーペを使っていたのだが、社用車を使うようになったのでそれを機に残念ながら手放した。

長女誕生

ヤスエの妊娠がわかったので、ボロアパートから貸家に引っ越した。
6畳と4畳半の2間に台所トイレつきでようやく人並みの住まいを得た。
初めての子供の誕生はやはり感慨深いものだった。
ただただ可愛いとしか言いようがない。
鹿児島に直ぐ連絡して名前を考えてほしいというと、母がセイコと名前をつけてくれた。

 
聖子
 
聖子

ヤスエの母親は高校生のときに亡くなっていたし、姉のユキコ義姉さんも子供二人がまだ小さくて家を空けることができなかったし、 私の実家のほうも相変わらずの貧乏暮らしで産後の手伝いに出向くほどの余裕はなかったし、その頃のことでもちろん私の育児休暇などはなかったので、 誰からも援助が受けられずヤスエはたいへんだったと思う。
私は仕事から帰ると赤ん坊にべったりで、もちろんオシメも換えたし、風呂にも入れた。

思いもかけない不幸が襲ったのは3ヶ月検診のときだった。
股関節形成不全とかの診断が下って、ほっておくとビッコになりますと脅されて足を常に開いておく器具を半年間ほどつけさせられた。
その姿は見るも辛いもので、器具を外していいという許可が出た時には腹立ち紛れに外した器具を床に叩きつけたものだ。
 
聖子
 
聖子

次女誕生

長女の誕生から1年8ヶ月後に次女が生まれた。
長女の時と同様助産院で分娩したが、やはり誰も手伝いには来てくれなかったので長女も入院中は助産院に預かってもらった。
今度は自分で名前をつけようと思って最初は「茜」という名前を考えたが、当時は名前に使える漢字の中に入っていなかったので 「ウタコ」にしたが、自分ではなかなかいい名前だと思った。

 
詩子
 
詩子

2番目も女の子ということで周りでは「男の子が欲しかったのでは?」と言われたが、全然そんなことはなくて、 私としてはむしろ女の子のほうが可愛くていいのかなと思っていた。
次女はくるくる巻毛の可愛い子だった。
 
詩子
 
詩子