おんじょどいの小屋

30代の思い出

家を建てる

丁度30歳のときに郊外に家を建てた。
最初は中古を買うつもりだったが、知り合いが手頃な売地があると教えてくれたので見に行って買うことに決めた。
まだ整地もされてなくて、丈の低い笹竹の藪が一面に広がった60坪ほどの土地だった。
地元の工務店も知人に紹介してもらって、総額600万円ほどで出来た。
内装は親しくしていたインテリア屋さんに依頼した。

家が完成してから庭は自分で耕して芝生を植えたし、バルコニーと物置も日曜大工で作製。
当時、エレクトーンの梱包は木枠で囲んだダンボールだったので、その板で境界に木製フェンスを作った。
南側には古い農家が建っていて、防風のための杉の木が高く聳えていて日当たりが悪かったので、 隣家に断りなく上のほうの木を切ってしまって隣のおばさんに怒られた。
若気の至りといえばそれまでだが、今思うと常識外れのことをしでかしたものだ。
5年後に引っ越すときに売却したが思いがけず800万円で売れたので助かった。

新築

マイホーム

長男誕生

3人目の妊娠がわかったときはさすがに今度は男の子がいいかなと思っていたが、その通り男の子を授かって嬉しかった。

 
聖一郎
 
聖一郎

名前は「太郎」にしたかったのだがヤスエが大反対で、さんざん悩んだ挙句「セイイチロウ」にした。
実家でもたいへん喜んでくれて、ポールの高さが5mもある鯉のぼりを送ってくれたくらいだ。
 
聖一郎
 
聖一郎

アキレス腱断裂

31歳のとき社員旅行で初めての海外旅行としてグァムに行った。
浜辺で仲間と三段跳びをしてはしゃいでいたとき、2歩目を踏み出したとき砂に足を取られて右足で左足の踵を思い切り蹴ってしまって、 変な音がするとともに激しい痛みが襲って転んだ。
皆は笑い転げていたが、私は苦痛に起き上がることもできずしばらく突っ伏していた。
ホテルに帰ってから添乗員が痛み止めを買ってきてくれたが痛みは去らず、翌日ビッコを引きながら日本に帰ってきた。

左足だったのでなんとか車を運転して会社に出勤したが、よくなる気配がないので病院に行ったところアキレス腱が切れかかっていると言われた。
翌日手術して、膝上までのギブスをはめられてしまった。
松葉杖がないと歩くこともできないし、もちろん車の運転もできないのでギブスを外すまでの1ヶ月ほどは同僚のTに送り迎えしてもらって出勤した。

グァム

グァム旅行

営業に転向

アキレス腱断裂のため車の運転ができないので東口店の店番をするしかなかったのだが、この災いが後に転じて福となった。
お店に来るお客さんとのコミュニケーションを通して販売の面白さを経験したことと、時間があったので音楽教室の生徒名簿の 整理を始めたのだが、折角の販売資産である生徒名簿がきちんと管理されていないことに気がついた。
音楽教室管理の必要性を感じたことで社長に営業への転向を申し出たところ社長も大歓迎で受け入れてくれた。
怪我が治った後は音楽教室管理係り兼営業として新たなスタートを切った。
再スタートを切ってからは仕事も順調で、営業成績もそこそこ上がったし、音楽教室管理のほうもいろいろな改善を行って社長にも認められた。
2、3年後、会社としての規模も大きくなって大卒の求人もすることになり、一挙5人の大卒を採用し、私が新設の販売企画課長として彼らを預かることになった。
5人の内3人はものにならなかったが、二人は大きく成長して会社に貢献した。

 
発表会

発表会での挨拶

 
社員旅行

社員旅行

ヤマハ音楽教室会場開設(1979年3月末)

34歳の頃、社長に音楽教室開設を勧められた。
その2、3年前に先輩社員のFさんが音楽教室を開設していて軌道に乗っていた。
社員が自宅を音楽教室にするのは、会場費が入るので本人にもメリットがあるし、 会社にとっても他人負担で教室展開が出来て販路が拡がるので都合がいいわけだ。
東武線沿線の以前飲み屋をやっていた中古物件を見つけたのでそこに決めた。
線路脇で環境はあまり良くないが、音楽教室も騒音を発するので近隣からの苦情もでないだろうと考えた。
1階を音楽教室、2階を住まいに改装したので総額2500万円くらいかかった。

左鎖骨骨折

音楽教室が出来て引っ越した日に、テレビのアンテナを繋ごうとして1階の屋根にハシゴを架けて、 2階の屋根に登って修理が終わり降りようとしたときにハシゴが滑って隣の畑に転落。
左鎖骨を骨折、畑だったからよかったものの道路側だったら命をなくすところだった。
1階の屋根にハシゴを架けてるんだからそりゃ滑るよな。そのときは晩酌の後で少し酔っていたから注意力が散漫になっていたのだろう。
私が運営管理をしなければならない発表会の前日だったので、会社にも多大な迷惑をかけてしまった。
救急車は呼ばず、同僚のTに電話して病院に連れて行ってもらった。
次の日に手術したが、複雑骨折ということで手術はたいへんだったのかもしれないが、鎖骨が無様に盛り上がってしまったし、肩に何か当たると痛みがあった。
術後は左腕にギブスをはめられたが、なんとか車の運転はできたので仕事に支障はなかった。

オイルショック

二度に渡って好景気に水を差したオイルショックは物価高をもたらしたが、楽器業界にとってはそれが追い風となったようだ。
ピアノの価格が半年毎に値上がりするというので、ピアノが飛ぶように売れた。
また好景気によって子供に習い事をさせる風潮が高まり、ヤマハ音楽教室の入会者も右肩上がりで伸び続けた時だった。
絶好の時期に楽器業界に飛び込んだ自分の強運を思わずにはいられない。

会社は直営のセンター会場・幼稚園会場・個人宅教室など音楽教室を手広く展開しており、在籍生徒数は最大約6000人になった。
音楽教室収入は固定収入なので、音楽教室の運営管理はおいしい仕事だ。
音楽教室担当の私の仕事の重要性も高まり、課長、部長、常務、専務と順調に出世した。

また自宅をヤマハ音楽教室会場にしたことにより、会場費収入が入るので経済的にも随分助かった。
ヤスエが受付として積極的に生徒勧誘を行なったので、在籍生徒数は最大時にはのべ400人にもなり、私の給与収入を上回るほどになった。

下手をするとギャンブル依存症に陥り、人生を棒に振るところだった私を採用し、引き立ててくれ、人並みの社会人に育ててくれた社長には感謝のほかない。

Nの硬膜下出血

Nは私の入社以前から居た古参の社員だったが、酒癖の悪い困ったちゃんだった。
社員旅行で那須へ行った帰りのバスの中で一升瓶に入ったワインを一人でほぼ飲み干し、完全に酔っ払っていた。
サービスエリアでトイレに行こうとしたときも後ろから支えなければ歩けないほどだったが、本人はそれを振り切って 一人で歩き出したかと思うといきなりバックを始めて、バック転をするように両足を上げたままひっくりかえって地面に後頭部をぶつけた。
その時、電球が割れるようなパカーンという音がして仰向けに倒れたまま動かなくなった。
大丈夫かと声をかけると何かしら悪態をついていたが、ただ事でないのはわかったので急いで救急車を呼び、 私と社長が一緒に付き添って病院に向かって、他の社員はバスで帰した。
病院に着いても何かわけのわからないことを大声で叫んだりしていて、診察もまともに出来ないのでとりあえず鎮静剤を打って病室に運び込んだ。
私が朝まで付き添うことになり、社長は電車で帰った。

Nの様子を見ていると鎮静剤で眠っていて盛んに寝返りをうつのだが、左手と左足はピクリとも動かさない。
翌朝になっても同じ状態なので、これは右脳が損傷を受けているのではと思って社長に電話したら、 直ぐに先生に知らせろとのことで看護師に伝えると、先生が診にきて慌てて救急車を呼んで近くの大学病院に運んだ。
硬膜下出血との診断で右側の頭蓋骨が割れて内部に出血があるとのことだった。
もう少し遅れれば命取りでしたと言われた。

後に社長は私の判断を名医だとして褒めてくれたが、Nは私たちに乱暴されて怪我したみたいなことを奥さんにはしゃべっていたみたいだ。
Nは快癒した後も酒をやめられず、挙句の果ては出勤前にも飲酒するようになって、ある日出勤時に酔っ払い運転で田んぼに突っ込み、とうとうクビになった。

痔の手術

39歳の夏、いぼ痔の手術を受けた。
それまでに長い間いぼ痔には悩まされていたのだが、場所が場所だけに病院にも行かず薬で誤魔化していた。
排便のときの出血が段々頻繁になり、終いには何でもないときに出血するようになったので、覚悟を決めて病院に行った。
やはり手術以外に治る方法はないとのことで、夏休みに手術してもらうことにした。
1週間ほど入院することになるので子どもたちは鹿児島に帰した。
手術中はもちろん、手術後も全く痛みもなく、排便にも不自由を感じることはなかった。
これなら、何年も我慢せずに直ぐに手術すればよかったと思った。