おんじょどいの小屋

40代の思い出

健康志向

40歳になったとき、一念発起して17歳から吸っていた煙草をやめた。
そして毎朝食後に牛乳を飲むことに決め、甘いものを極力取らないようにして、週に2、3回はジムに通うことにして身体作りを始めた。
煙草はそれまでにも何度もやめようとして挫折していたが、このときばかりは断固続けるんだという強い意思をもって取り組んだので禁煙に成功した。
ヤスエは煙草を吸わなくなったというのは、灰皿を使わないのだから初日でわかるはずなのに、10日ぐらい経ってから「やめたの?」と聞いた。
早い段階で聞かれたらへそ曲がりの私は禁煙を継続できなかったかもしれないので、この時のヤスエの対応には感心した。

クロスバイクを買ってサイクリングも始めた。
近くにサイクリングコースもあったし、江戸川堤のサイクリングロードを使って柴又経由で都内にも何度か行った。
カプセルホテルに泊まってあちこち巡るのは楽しい体験だった。

40歳代の身体作りは大事で、お陰で現在まで大きな病気にもせず、インフルエンザにも罹らず、風邪もあまりひかない身体になったと思う。
タニタの体組成計ではいまだに体内年齢は一回り以上若く判定される。

クロスバイク

クロスバイク

仕事一途

社長は一代で埼玉県有数の楽器店に育てただけに仕事には厳しかった。
課長を拝命したときから「休日はないものと思え」と言い渡されたくらいだ。
もちろん有給休暇など一度もとったことがない。
会社は月曜日定休で土日は出勤だったので、子どもたちの学校行事にはほとんど参加したことがないし、 土日にどこかに連れて行くということもできなかった。
それだけに正月休みとお盆休みには必ず旅行に連れて行って家族サービスをした。

そのような労働環境も息子さんが会社に入ったときから少しずつ変わり、社長が会長に退き、 息子さんが社長になると土日休みになったし、帰社時間も随分早くなった。

キャンピングカー (1987年8月)

幼稚園会場の一つであったH幼稚園の園長の息子がキャンピングカーをレンタルする仕事をやっていたので、 10人乗りの日産コーチを改造したキャンピングカーを借りて夏休みに北海道へ行った。
レンタル料は20万円だった。
仕事を終えて家に帰ったらあらかじめ借りておいたキャンピングカーに乗って直ぐに出かけた。
夕食は運転しながら食べた。なぜなら、翌日の朝早く大間港からフェリーに乗らなくてはならなかったからだ。
明け方まで運転したが、間に合いそうだったので途中で仮眠して無事にフェリーに乗れた。

大間港で近所の家族に会ったのでびっくりだった。彼らは私達の後の便とのことだった。
出発を待つ間に食事をしたのだが、車にキーを差したままロックしてしまったことに気づいて焦った。
ガラスを破って入るしかないかと思ったが、セイイチロウがロフトの窓が空いてるかもと車の屋根に登って、中に入って開けてくれて事なきを得た。

北海道は1週間かけてほぼ一周した。
レンタカーは翌日返したが、なにせ大きな車体なのであちこちにぶつけて傷が出来てしまったので、後から修理代50000円を請求された。

自作キャンピングカー

キャンピングカーの魅力を知ったので自作してみることにした。
まずキャンピングカーの作り方の本を買うことから始めたが、8ナンバーを取得するために車体検査を受けなければならず、 いろいろな基準をクリアしなければならないことを知った。

次に車を買った。車は大きさを考えて中古のハイエースロングにして、購入後直ぐに板金屋に持ち込んで、サイドの窓を取り外して鉄板で覆って、 後部の屋根部分にウイングを取り付け、フロントとサイドにはエアロパーツを取り付けた。
内装作りはたいへんだった。まず後部座席を取り外して合板床を敷いた上に絨毯を張り、壁には断熱のためウレタンを張った上に厚手の布を張った。
それから組み立て式の椅子兼ベッドや流し台、スピーカーを自作して設置した。

完成までに何ヶ月かかかったが、車検の取得代行を頼んだプロのキャンピングカー製作所の人が「プロ並みの出来だ」と褒めてくれた。
このキャンピングカーが出来て直ぐの正月休みにこれで鹿児島へ帰った。

富士登山

1988年と1991年の夏休み、富士山に登った。
1回目のときはキャンピングカーで前日の夜に5合目の駐車場まで行って夜を過ごし、翌朝7時半頃に起きて食事をして登り始めた。
頂上に近づくほど空気が薄くなるので頭が痛くなってきた。
さすがに登りはきつかったが、下りは須走ルートの細かい火山砂利を滑るように下れたので楽だった。
下山後は伊豆半島を巡って帰った。

2回目はヤスエとセイイチロウと3人で登った。
日本人なら一度は登らなくてはと思っていた富士登山に二度も登れたのは自慢できるかも。

ラスベガス

45歳のとき社員旅行で3泊5日のロスアンゼルス旅行に行った。
1日は市内観光や買い物などが設定されていたが2日目と3日目はフリーだったので、ディズニーランドへ行く者、 再度市内観光やショッピングに行く者など様々だったが、私はどれも興味がなく、どこに行こうか迷っていると一人取り残されることになった。
そして決めた行き先は前から一度行ってみたかったラスベガスだ。
遠いから当然飛行機で行こうと思ったので、ホテルの前でタクシーを拾って飛行場へ向かった。
途中、運転手が「どこへ行くのか?」と聞くので「ラスベガス」と答えたら、「自分も行きたいからタクシーで行かないか、400ドルでいいよ」と提案された。
タクシーだと時間もかかるし、飛行機のほうが安いと思ったが、熱心に勧めるし、途中の景色も車のほうが楽しめると思ってタクシーで行くことにした。

運転手はトニーという名前でヒスパニック系らしかったが、日本人の彼女がいると言っていた。
私の片言の英語でも充分会話が成り立って、車内で飽きることはなかった。
11時頃ホテルを出たが、お昼になったのでトニーが何を食べたいかと聞くので「I can eat everything」と言ったら「anything」だと言って笑われた。
ガソリンがなくなって田舎のガソリンスタンドに立ち寄ろうとしたとき、トニーは遠くから様子を伺って「あそこはヤンキーの店らしいからやめておこう」と言って別な店を探した。
おそらく人種差別を恐れたのだろうと思った。

私はポータブルカセットプレイヤーを持っていってテープもいくつか持っていたので、トニーにも聞かせてやると桑田佳祐のテープを喜んで聴いていた。帰りに彼の彼女にプレゼントした。
2月だったので山間部を走ったときには雪も降り出してヤバイなと思ったが、トニーがチェーンを買ってなんとか無事にラスベガスに着いた。

ラスベガスに着いたのは7時頃だったので、社長たちが心配しているのではと思って電話すると、皆ラスベガスにいると知って驚いていた。
それから食事をしてからいよいよカジノに繰り込んだ。
もちろん大金を賭けるほどの金は持ち合わせていないので、少額のチップを買ってカードゲームやスロットルなどを楽しんだ。もちろんトニーの分も私持ちだ。
11時頃になると時差ボケもあって凄く眠くなったので、ホテルに部屋をとって寝ることにした。
ラスベガスではカジノで充分元はとっているからホテル代と食事代は凄く安かった。
カジノは終夜営業だからちょっと休んでまたやるつもりだったのだが、目が覚めたのは翌日のお昼前だった。
トニーは別室で既に起きていて「疲れているようだったから起こさなかった」と言った。
食事を済ませてからトニーが市内をざっと案内してくれた。

それからロスアンゼルスに戻ったが、夕食を一緒にしてホテル着いたのは夜9時頃だった。
トニーには400ドルのタクシー代と100ドルのチップをあげた。
全ての支払いはトラベラーズチェックだったのだが、実はパスポートはホテルに預けたままで持っていなかったので行く先々で「パスポートは?」と言われて困った。
トニーに500ドル渡したときも「パスポートは?」と言われて二人で大笑いだった。
こうして私の冒険旅行は終わったのだが、トニーがいい奴で良かったと思う。
もしタチの悪い運転手だったら裸で砂漠にほっぽり出されていたかもしれない。
このときに写した写真をいつの間にか紛失してしまったのは残念だ。

株取引

音楽教室も段々生徒が増えて軌道に乗り始め経済的にも余裕が出来始めた頃、世の中ではバブルの始まりとともに株ブームが起きていた。
私も株に手を出すようになり、そのうちには欲を出して家を担保に900万円ほど銀行から借りてまで投資するようになった。
ビギナーズラックで最初のうちは結構儲かったが、バブルの崩壊とともに損が膨らむようになり撤退し、借金だけが残ることになった。

ゴルフ会員権

一時期ゴルフにのめり込み、社長のお供で毎週ゴルフに出かけることもあった頃、ある筋から社長に福島に新しく出来たゴルフ場の 会員権を買わないかという話が舞い込んできて、社長に私も一緒に買うように薦められた。
今売り出している価格は600万円だがいずれは1200万円になるとのことで、子供の進学資金にもなると思って、銀行から借金して購入した。
確かに数年後には1200万円で売出しもしていたようだが、いつまで経っても名義変更の停止が解除されず、売るに売れない状態が続いていた。
福島なのでしょっちゅう行くというわけにはいかず3、4回行ったくらいだが、年会費は毎年2万円しっかり取られた。
そのうち運営会社が倒産して別な会社が運営することになり、会員を続けるためには25万円の追加金を払わなくてはならないことになり、 泥棒に追い銭かなとも思ったがいずれは名義変更が解除されて売れるようになるだろうと思って支払った。ところがその後も解除されることはなかった。

会社を退職して鹿児島に帰った後も年会費は払い続けていたが、ある日ゴルフ会員権を扱う会社から電話があり、「1万円で買い取る」と言ってきた。
これはゴルフ場運営会社と結託してやってることだなと思ったので、その後は年会費の請求が来ても無視することにして現在に至る。600万円をドブに捨てたと思って諦めている。

最近、ネットで検索してみたら福島空港ゴルフクラブは経営者が何度も代わり、現在はゴルフ場を廃業して跡地はメガソーラが設置されているそうだ。やっぱしね。

ピアノ

ヤマハ音楽教室に大人のピアノ教室が出来て大人の生徒も大分増えたので、発表会にも大人の部を設けることになった。
その大人の部の開会の挨拶のときに自分でもピアノを披露しようと思って一生懸命練習した。
挨拶は手慣れたもので緊張することはないが、いざ弾こうとしてピアノの椅子に座ったら凄く緊張して手足が震えた。
それでもなんとかショパンのノクターンを無事弾き終えた。
そのときはヤスエとセイコもきていたが、後でセイコがとても良かったと褒めてくれた。

ピアノ

発泡会で

スキー

40歳代後半からスキーを始めた。
子供たちと一緒に塩原方面のスキー場に何度か行った。
ある日、セイイチロウと会社のT君を伴ってハンターマウンテンに行ったときのこと、いつも夜に出かけてスキー場で一泊するのだが、 ヘッドランプがいやに暗いなと思いながらも到着して夜を過ごして、翌日夕方まで滑っていざ帰ろうと思ったらエンジンがかからない。
スキー場に常駐している整備士に見てもらったら、部品の交換が必要だと言われてその日は車を置いて帰ることになった。
駅まで整備士が送ってくれたのだが、その運転のすさまじいこと、ノーマルタイヤで凍りついた下り坂を尻を振りながら猛スピードで走るのでビビった。

あるとき家族中で泊りがけでハンターマウンテンに出かけたときのこと、朝早く家を出たにもかかわらず高速道が大渋滞。
降り口も長い行列だったので、次のインターまで走って回り道したほうが早いだろうと思ったのだが、一般道も大渋滞でなんとスキー場に着いたのは夕方だった。
スキー場が閉まるまで目一杯滑って、ホテルにチェックインしたのは11時過ぎだったが、夕食は用意してくれていた。
翌日は夕方まで滑って帰ったが帰り道も大渋滞で、途中で仮眠をとったりして深夜に帰り着いた。