おんじょどいの小屋

50代の思い出

ハワイ

丁度50歳のとき社員旅行でハワイに行った。
社員旅行としてはこれが最後になった。
30歳のときのグァムを初め、香港・タイ・シンガポール・ロスアンゼルスと度々海外旅行に連れて行ってもらったが、 段々社員自体も社員旅行を歓迎しなくなったようだった。
理由としては、自己負担が段々増えてきたということと、金を出すんだったら自分の好きな人と好きなところへ行きたいと 考える若い人が増えてきたことだろうと思った。

 
ハワイ

ハワイのビーチ

 
ハワイ

スキューバダイビング

ハワイでは島内観光やショッピングはもちろん、スキューバダイビングをしたり、射撃をしたり、大いに楽しめた。
40代からジムに通って身体を鍛えていたので、みんなに「50歳とは思えない」とか「腹が全然出てない」と何度となく褒められた。
 
ハワイ

射撃場

 
ハワイ

社員と取引関係の人も

マンション購入

セイコが学芸大に合格したので通学用に所沢にマンションを購入した。
最初は賃貸にするつもりで物色していたが、グランドピアノを置ける部屋を借りるとなると安くても12万円くらいはする。 ウタコも音大を目指していたし、セイイチロウも都内の大学となると最低7年は借りることになるので、購入することに決めた。
割安の物件を見つけたので見学に行くと、その物件は利殖用に購入したものらしく、借り主が猫を飼っていたので凄く荒れていた。
猫のオシッコで臭いし、床は汚れているし、壁には引っかき傷がたくさんあった。
不動産屋さんは「もちろんリフォームしてからお渡しします」と言っていたが、私は現状渡しで50万円の値引きという条件で購入した。

音楽教室や鹿児島の実家のリフォームも自分でやっていたし、キャンピングカーも自作したり、リフォームには慣れているので休日の度に出かけてはリフォームに励んだ。
壁紙は天井も含め全て張り替えたし、床は全てフローリングに変えた。
ピアノを置く部屋は防音のため壁一面にコルクの板を貼ったので、響きは悪くなったが防音効果は抜群になった。

子どもたちの卒業後賃貸に出していたが鹿児島に帰るにあたって購入時の半値で売却した。
やはり借りたほうが安かったようだ。

ドイツ&オーストリア旅行

1998年8月、セイコが国費留学生としてザルツブルグに留学中だったので、ドイツ&オーストリアを巡るツアーに参加することにした。

ライン川クルーズでは、写真でしか見たことのない古城の数々に魅了されたが、伝説のローレライの岩は何の変哲もない岩で、 船内で案内もあったがはっきり確認できなかった。

ローテンブルクでは中世の街が再現されたかのような街並みにタイムスリップしたかのようだった。

ロマンチック街道最大の目玉、ノイシュバンシュタイン城はドイツに現存するお城の中で最も美しいとの呼び声が高いだけあってその美しさは感動ものだ。

その後、国境を超えてザルツブルグへ。ザルツブルグに夕方着いたら我々はツアーから離れてセイコと一緒に過ごすことにした。
セイコの通っているモーツァルテム音楽院やセイコのアパートなどにも案内してもらった。

翌日はまたツアーに戻って、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となったザルツカンマーグートへ。
湖水地方の美しい風景に魅了された。湖畔にはセレブたちの別荘があちこちに点在していた。

ウィーンではシェーンブルン宮殿や聖シュテファン大聖堂などの市内観光。
午後からは次の日の夜まで自由行動だったのでセイコと待ち合わせして、一緒に市立公園や中央墓地などに行った。
夕方からクラシックミニコンサートに行って生の演奏を楽しんだ。
夕食は居酒屋みたいなこじんまりしたところで食べたが、食事も美味しくて、ワインも美味かったのでついつい飲みすぎてかなり酔っ払った。
ホテルにはセイコも潜り込んでエキストラベッドを使って3人で寝た。

翌日は、美術史美術館に行ったのだが、前日のワインで完全に二日酔い。私は内部の見学はできず、 入り口近くの芝生で寝ることにした。セイコとヤスエはゆっくり美術鑑賞したみたいだ。
午後からは気分もよくなって、ブルク劇場など市内観光をした。
夕食後、セイコはザルツブルグへ帰った。

翌日は関空へ向けて出発。帰国の途についた。

初めてのヨーロッパ旅行は日本と違う風景、建築物に圧倒された。
日本の木造の建築物も凄いと思うが、ヨーロッパの石造りのお城など寸分の狂いもなく積み上げられた技術には驚くばかりだ。

姉からの帰郷依頼

1999年秋頃、姉から「鹿児島に帰ってきてくれないか」という電話があった。
5年くらい前に姉は乳がんに罹り手術したのだが、それが再発して肺に転移したとかで痛みも出て病状が深刻になってきたようだった。

父母と同居していたのだが、父は既に87歳でボケが始まっていて身の回りのことも自分で出来ない状態だし、 母は5年くらい前から寝たきりなので、具合の悪くなった自分一人ではどうしようもないとのことだった。
私も専務として職責があるので、仕事を放り出して帰郷するということも直ぐには出来ないと思って、 最初は家の近くに家を借りて3人を呼び寄せることも考えた。
丁度、家の前に空き家が出たので借りる話を進めたが、母のかかりつけの医師が母を動かすのは無理だとのことで断念し、 ヤスエと二人で帰ることにした。

社長からは当座の間の休職を提案されたが、仕事に復帰できるのがいつになるかも分からないし、 一旦仕事を離れる決心をすると戻る気持ちにはなれなかったし、退職金と貯金で全ての借金を返済しておきたかったので退職を希望した。
こうして27年勤めた会社を54歳で退職した。

当時経営していた音楽教室は一時より生徒数が減ったとはいえ、まだ月々4、50万円くらいの収入はあったので生活費の心配はそれほどしなかった。
ウタコが週3日ウチの教室でピアノを教えていたので、ウタコに受付を兼任することを頼み、仕事のほうはKを後釜として 音楽教室運営とレディーさん(営業の女性)たちの管理の仕事を任せることにして、細かなマニュアルを作った。
そしてリモートワークという形で、鹿児島でPCで出来る仕事をして、1ヶ月に一度出社して打ち合わせなどを行うといいうことで月々報酬も貰えることになった。
鹿児島のほうの準備のため一度一人で帰って、仕事部屋にする6畳のプレハブを購入して、インンターネット環境を整えた。
準備万端整い、大晦日に車で鹿児島に帰った。

鹿児島に帰ったときは正直なところ、仕事の重圧から開放されてホッとした気分になったことも確かだ。
楽器販売の仕事も長引く少子化や経済の低迷によって、楽器の売上も音楽教室の生徒数も減少傾向が続いていてジリ貧状態だったので、 両親の介護という形で早期退職できたのはラッキーとも言えた。

介護と両親の死については父母についてで書いているので、ここでは述べない。


ラスベガス旅行(2000年12月)

父と母を立て続けに亡くして傷心の時期ではあったが、気分転換に旅行に行くことにした。
行き先はラスベガス。45歳のとき一度行ったが、その時は社内旅行の最中にロスアンゼルスからタクシーで行ったので、なにせ滞在時間が少なかった。
数あるツアーの中から空港とホテルの送迎だけがついた、自由時間のあるものを選んだ。
福岡空港発、ラスベガスとロスアンゼルスの2都市を巡る旅で、添乗員も同行しないので格安だった。

ラスベガスで泊まったホテルはルクソール。
ルクソールの本館は巨大なピラミッドの壁面が客室になっていて、中は吹き抜けなので客室フロアの廊下から見る下界の景色が壮観だということだった。
またエレベーターも斜めに上るものらしかったが、私たちの部屋は格安だったから別館のストレートな建物だったのでそれを体験できなくて残念。

ラスベガスは街全体がエンターテインメントになっていて、それぞれのホテルがいろいろ趣向が凝らされていて見るだけで楽しいのでホテル巡りをした。
シルク・ド・ソレイユみたいなショーも見ることが出来た。
ヤスエが一緒だったので、カジノはスロットルをちょっとやっただけで我慢した。
街全体を見渡せる展望所に上って見た夜景も素晴らしかった。
ラスベガスの周りは砂漠なので、街の灯りの外は真っ暗でより一層華やかさが強調されて美しく感じた。

ロスアンゼルスでは、一日パスポート付きだったのでユニバーサルスタジオに行った。
よく知っている映画に出てくるシーンやキャラなどのアトラクションが盛り沢山で楽しめた。

メジャーリーグ観戦ツアー(2001年6月28日~7月2日)

ヤフーオークションでロスアンゼルスのアナハイム球場でのメジャーリーグ観戦ツアーのチケットが売られていた。
確か落札価格は50000円だったと思うが、90000円で追加で参加することもできたのでヤスエと二人で出かけることにした。
当時はイチローと佐々木投手が共にマリナーズで大活躍していたときで観戦ツアーが流行りだった。
成田を17:20頃発って、ロスアンゼルスにその日の11:15着だから何か不思議な感じ。
ロスアンゼルス到着後はバスで市内観光。

翌日は19:00からのナイター観戦まで自由時間だったので、レンタカーを借りて周辺を回ることにした。
もちろん外国での運転は初めてで、右側通行にも慣れていないので右折や左折で何度か間違えそうになった。
グリフィス天文台やビバリーヒルズやサンタモニカに行った。
レンタカーを返すときに駐車場が見つからず、集合時間に間に合わないのではとかなり焦った。

アナハイム球場では本場の野球観戦の雰囲気を感じることができた。
残念ながらこの日はイチローにヒットはでなかった。

翌日はオプションのユニバーサルスタジオへ。
ユニバーサルスタジオは前回に続いて2回目だが、他のオプションよりは良さそうだった。

姉の死(2001年8月30日)

姉は父や母より先立つのではと心配していたようだったが、父と母を看取って安心したのか体調も良くなって、一人で中国に旅行に行ったりして穏やかに過ごしていた。
私たちも気楽にラスベガス・京都・四国・ロスアンゼルスなどに旅行に行ったりしていた。
ところがロスアンゼルスから帰ったときには様子が一変していて、体調が悪くなって咳がひどくなり、痛みもひどくなったようで再度相良病院に入院することになった。

医師に余命を確認すると初めは2ヶ月くらいと言っていたが、行くたびに段々その間隔が短くなり、そのうち緩和ケアの病棟に移ったらどうかと打診された。
これによって余命があまり残されていないことを悟った。
緩和病棟に移ってからは余命宣告はどんどん短くなり、遂に今日明日が峠とのことでヨシコとマリも呼び寄せたが、マリは何かの都合で臨終には間に合わなかった。
私とヤスエとヨシコが見守る中、姉の呼吸が段々細くなり、静かに止まった。

姉の死は両親のときよりずっと辛いものだった。
鹿児島に帰ってから1年半ほどの間に3人を失った悲しさは二度と味わいたくないと切に感じた。

創本工房 設立(2001年09月)

年齢的にも会社勤めは無理なのでなんとか自宅でできる仕事はないかと考えて、自分史や自費出版の本の製作を代行する仕事にトライすることに。

まず、いろいろな本を作る方法を研究して、試作するための道具やPCソフトやプリンターなどを用意して試作本を何冊か作った。
ネットで受注するためにホームページを作成することにしたが、まだこの頃はPC操作も不慣れで、ネット関連の知識もなく、 なにもかも初めてのことで苦労したが、この頃の勉強が後々の悠友会のブログ作成や、自治会のホームページ作成に大いに役立った。

創本工房のページだけではホームページをアピールできないので、鹿児島弁辞典や薩摩狂句などのページも作成したが、 これは「おんじょどいの小屋」として現在も継続中。
念願のホームページもできて、見積もり依頼もいくつか入ったが、なかなか成約までには至らず、 結局傘寿を迎える父親へのプレゼントということで父親の作った俳句集を200部作りたいという依頼が成約にこぎつけ、60万円の受注となった。
我ながら上出来の本となったが、業績としてはこれっきりだった。

中国旅行(2001年10月)

2001年10月ツアーを利用して一人で中国旅行に行った。
上海空港に着いたらバスで蘇州へ移動して、その日は蘇州泊り。
一人部屋だったが、夕食後部屋にいたら電話がかかってきて英語で「女の子は要らないか?」と言ってきた。
「要らない」と言うと今度は「男の子は要らないか?」と言ってきた。
もちろん断ったが、一人部屋と知って電話してきているのはあきらかなので、ポン引きはホテルとグルなのだろうと思った。
さすがハニトラで有名な中国!何でもありだ。

翌日は虎丘・寒山寺・拙政園などを見学。
中国のお寺は建物も仏像なども赤や黄色などの派手な色をしている。
太湖では観光船に乗ってクルーズを楽しんだ。

次の日は列車で南京へ移動。
車内販売では食料品だけでなく、おもちゃとか便利グッズみたいなものも販売していた。
南京では孫文の墓である中山陵や古い城門の中華門などを見学。
中国最長の河川、揚子江も見られた。

翌日は上海に戻り、豫園を見学後、帰国の途へ。
一人旅だったので気ままに朝食後や夕食後に街歩きを楽しめてよかった。

フランス周遊7日間(2002年5月9日~15日)

2002年5月9日~15日の7日間、フランス周遊の阪急交通社のツアーに参加した。
このツアーはビジネスクラスを利用するという触れ込みだったのだが、女性の若い添乗員がどこに行くでも大きな声で「ビジネスクラスのお客様」を連呼していた。
あまりに聞き苦しいのでツアー客の一人が添乗員に注意したが、聞き入れることなく最後まで連呼をやめなかった。
ビジネスクラスと言ってもコリアンエアーだから大したことはないのだが、会社命令なのだろう。

9日、鹿児島空港(10:00発)から仁川空港へ。仁川空港(13:30発)でビジネスクラスに乗り換えてパリ(17:30着)へ。
空港からホテルへ直行して、パリ泊。

10日、フランス北部のノルマンディー地方へバスで移動。
昔、ノルマンディーの首都として栄えたルーアンの市内観光。ノルマンディ様式の木組みの家々が立ち並んで古都の風情が感じられる。
ノートルダム大聖堂はフランスを代表するゴシック建築の大聖堂で、モネが連作で描いたことでも有名だ。
ジャンヌ・ダルクが異端裁判にかけられ処刑された処刑跡を見学。
その後、セーヌ河岸にある北フランス最古の港町オンフルールへ。
昼食後、オンフルールの港では久しぶりに潮の匂いを強く感じた。
その後、モンサンミッシェルへ。モンサンミッシェル泊。

11日、モンサンミッシェル修道院観光。
海岸より約2km離れた修道院はロマネスクゴシックなどの様式で建てられたまさに幻想的な景色を醸し出している。
モンサンミッシェルで石打ち器の鉄製の飾り物を買った。
モンサンミッシェルの名物オムレツの昼食後、ロワール地方の中心地トゥールへ。
途中の道路で円状交差点を初めて見て感心した。
円状の交差点を左に回るのだが、右へ曲がる車は4分の1周、直進する車は半周、左へ曲がる車は4分の3周回って目的の方向へ進むのだが、 信号がないので通行が極めてスムースだ。
交差点に広いスペースが必要なので、日本のように道路の狭い国では難しいかもしれないが、便利な方法だと思った。トゥール泊。

12日、朝食後、ロワール古城巡り。(アンボワーズ城、ブロア城、シャンポール城)
レオナルド・ダ・ヴィンチが晩年を過ごしたことで有名なアンボワーズ城はロワール川に面して建っていて、対岸にはレオナルドダ・ヴィンチの銅像がある。
フランソワ1世の居城、シャンポール城ではレオナルド・ダ・ヴィンチの設計が取り入れられたという、人と人がすれ違うことなく上り下りできる二重螺旋階段を見ることが出来た。
世界遺産に登録されている、ロワール河の支流シェール川にまたがるように佇むシュノンソー城はとても美しい城だった。
お城の内部のステンドグラスから柔らかな光が差し込んでいい雰囲気を作っていた。
その後、トゥール駅からTGVでパリへ。パリ泊。

13日、翌日はパリ市内観光で、エッフェル塔・凱旋門・コンコルド広場・ヴァンドーム広場などを巡ってからルーブル美術館へ。
ルーブル美術館でたくさんの名画を鑑賞した。模写する人も見かけた。
その後、ノートルダム大聖堂やオペラ座の内部の見学。
ツアーの仲間で、一人で参加していた女性と仲良くなり、一緒に写真を撮ったりして行動を共にした。パリ泊。

14日、オプションのベルサイユ宮殿観光へ。
オプションなので団体行動ではなくて、送迎だけしてもらって宮殿内は自由行動だった。
ベルサイユ宮殿はとにかく広い。見渡す限り宮殿の敷地なのだから驚く。内部も絢爛豪華で圧倒される。
「王妃の村里」には穏やかな空気が流れていたが、マリー・アントワネットもここで癒やされていたのだろうと思った。

デイトレーダー(2002年~2005年)

創本工房で収入が得られなかったので株取引で利益を得ることを考えて、SMBC証券に口座を作り、姉の遺産の中から3000万円ほどを使ってネットで株取引を始めた。
ビギナーズラックか?最初の頃は結構儲かった。
調子にのってウタコとセイイチロウからも300万円ずつ預かって投資し、しばらくは配当もした。
1000万円くらいの利益を上げた頃にライブドアショックが訪れ、その頃は新興株を大量に信用買いをやっていたので毎日ストップ安の銘柄が続出し、 損切りの嵐で結局4000万円くらいの損失を出した。
差し引き3000万円くらい資産を溶かしてデイトレから撤退。

東北・北海道旅行

2002年7月24日~8月7日、東北地方と北海道を2週間かけて旅行した。
7月18日鹿児島を出発。埼玉を中継しての往復だが、日本縦断を果たしたことになる。

会津若松市。地元では鶴ヶ城と呼ばれる会津若松城を見学したときボランティアのおばさんが案内してくれたが、 私たちが鹿児島から来たと告げると「薩摩と会津は敵同士だった」と今でも恨みに思っているような様子だった。
いくらボランティアとはいえあれではマイナス効果ではと思った。
昼食は名物の喜多方ラーメンを食べた。びっくりするほど美味いとも思えなかった。

日本三大霊山の一つに数えられる恐山へ。名前の通りおどろおどろしい風景だ。
その後、薬研渓流や願掛け岩を回り、仏ケ浦へ。仏ケ浦では海底に見えるボートに乗ったが、私の大好きなウニがたくさん見えたのには驚いた。
貴重なウニが取り放題状態!

宗谷岬へ行ってから紋別・サロマ湖を経由して網走へ。網走ではオホーツク流氷館で-20度を体験できた。
網走監獄博物館では昔の刑務所の内部を再現する展示物があり興味深かった。実際に牢屋にも入ってみた。

青森では夜にねぶた祭りを見た。近くで見るねぶたと踊り子たちの熱気に圧倒された。

38年くらい前に親友のN君に案内されて貴重な体験をした厳美渓も訪れた。昔と変わらぬ風景に癒やされた。
夕方仙台に入り、有名な仙台の花火を見た。

翌日、これまた有名な仙台の七夕飾りを見に行った後、松島に行き、遊覧船で島めぐり。
夕方、連絡していた名取市のN君宅へ、大いに旧交を温めた。

翌日、N君夫妻とともに蔵王へ。山頂付近まで車で登れるので楽だった。
蔵王は夏場だけしか車で登れないらしい。お釜も見られたのでよかった。
蔵王を下りたところでN君夫妻と別れて埼玉へ。

北京旅行(2002年11月)

2002年11月、北京に行った。ソウル経由で北京へ行くツアーで、ソウルでの半日観光が付いていた。
鹿児島空港から仁川空港に着くとバスでソウル市街へ。
はじめに青瓦台へ行ったが、内部の見学は厳しい規制があるらしく外観だけの見学。
青瓦台の正門前の道路中央に警護の警官のお立ち台があったが交通整理はやらない。
ソウルの幹線道路はどこも片側4、5車線あって広いが、有事の際に軍用道路に転用するためらしい。
観光は主に車窓からだけだったが、韓国お決まりの土産店だけは欠かさず行程に組み込まれていた。もちろん何も買わないが。
ロッテワールドホテルに宿泊。目の前のロッテワールドはまだ賑わっていた。1基だけ外が見えるエレベーターがあり、夜景を見ることができた。

翌日、仁川空港から北京へ。
景山公園には白樺の一種らしい幹の白い樹木がたくさん生えている。日曜日だったので公園内のあちこちでたくさんのグループが合唱を楽しんでいた。
長廊(全長728m)は三国志や西遊記などの絵が8000幅描いてある。

ツアー仲間に出水市から来た3人組がいたが、兄弟かと思うほどの似た者同士でその言動が可笑しく笑えた。
夕食後、ホテルの周りを散策すると、公園には様々なアスレチック器具が置いてあった。中国人はよく公園で太極拳をやっていたりするが、 とても健康に気を使う人たちみたいだ。

万里の長城には110m毎に望楼があるとのこと。月から見える地球最大の建築物と言われるが、よくもまあ~こんなものをこんなところに造ったものだと驚くばかり。

太和殿は映画「ラストエンペラー」で、幼い皇帝溥儀が即位式を行った場面でおなじみ。
故宮内では皇帝溥儀の甥にあたるとかいう人が、観光客相手に30000円で自作の書を販売している。私たちは書は買わなかったが、ちゃっかり写真を一緒に撮った。
文化革命のときに多くの宝物が失われて、残っているものは僅かだとのこと。

市内のデパートは品物は豊富だけど、デザインがイマイチ、所得水準の割には高いのではと思ったが、所得格差が大きいらしいので買える人も大勢いるということなんだろう。

絹糸の製糸工場にも見学に行ったが、そこでは絹のパジャマを買った。本場だから本物の絹だと信じたいが、中国のことだから化繊ではないかと今でも少し疑っている。

大きな家具工場の見学に行ったとき、即売会をやっていて、そこでマホガニー材の飾りダンスに13種類の貴石で彫った彫刻のセットを衝動買いしてしまった。
価格は100万円、今思うとバカバカしいが、その前に如何に貴重な木材を高度な技術で家具を作っているかというビデオを見せられたこともあって、すっかりその気になってしまった。
鹿児島に帰ってからヤスエが解約した。

レストランでは北京ダックも上海ガニも食べられたし、食事はおおむね美味しかった。青島ビールも薄味なので飲みやすく悪くなかった。
オプションで京劇も見たが、衣装が派手で見栄えはするものの、独特な音楽がただうるさいだけで肌に合わない感じがした。

音楽教室の閉鎖

24年間営業を続けてきた音楽教室だが、周辺の環境も会社の音楽教室展開の事情も変わってきたので、社長から教室移転の打診があった。
覚悟していたことでもあったので、快く了承した。
わざわざ社長が鹿児島の自宅まで訪れてくれて生徒の移籍や楽器の処分などの打ち合わせを行い、2004年3月末をもって音楽教室を閉鎖することになった。

これまで散々儲けさせてもらったので全然悔いはなく、ただ感謝感謝であった。

新白岡に新築(2004年9月25日)

音楽教室を3月末でやめたので、家を引っ越すことを考え始めた。
当時はセイイチロウはパリに留学中でセイコとウタコが住んでいたのだが、子どもたちには長い間狭い家で我慢させていたので少しは広い家に住まわせようと思った。
あちこち検討したが、結局新白岡に決めた。
新白岡は会社に勤めていたころ、高級住宅地として販売されていて当時は7000万円くらいで販売されていたので、 よくそんな価格で買えるなとうらやましく思っていた高級住宅街だ。
最初は中古を買うつもりで新白岡3丁目の家を見に行って3300万円でほぼ決めようと思っていたが、 その帰りに駅を見てみようということで駅の近くに行ったところオープンハウスの看板が出ていた。
リフレの杜という区画でいくつかの新築物件を見ることができたが、やはり新築を見ると中古とは全然違うので子供たちも乗り気になった。
価格も土地が半分は借地という条件で割安に設定されていたので、3800万円と中古と変わらない価格だったのでその場で購入を決めた。
半年ばかりの工事を経て完成に至った。

借地の部分は10年後から賃料が2倍になる条件だったので、その直前に購入することにした。

新築

新白岡に新築