おんじょどいの小屋

父母について

結婚

母は若い頃修道院に入って修道女になったことがあったようだ。
もちろん父親からは猛反対され勘当同然で家を出たものの、修道院で病気になり家に返されたのだとか。
それで父親とは折り合いが悪かったようで、結婚後は実家との付き合いは全くなかったし、母が実家の話をすることはほとんどなかったので、 父親が造船所をやっていたことと7人兄妹であったことくらいしか知らない。
親の反対を押し切って自分の思いを遂げる性格は私に引き継がれているのかもしれない。
父母の結婚に至るいきさつは知らないが、母としては一刻も早く家を出たいという気持ちが強く、どちらかといえば格下の父との結婚に踏み切ったものと思う。
もちろん恋愛結婚でないことは確かだ。
新婚旅行の宿代を心配する父に、母が「アタイガ モッチョッガ(私が持ってるよ)」と支払ったと聞いたことがあるが、 このころも父は貧しかったものとみえる。

 
父母の結婚式

結婚式

 
母

母の若かりし頃

中国 天津へ

両親は結婚後、中国の天津へ渡り、そこでカツミ姉貴と私が生まれた。
私たちの上にヒロミとノブヤスという姉と兄が生まれたが、幼くして亡くなったという。
天津での暮らしの様子は話してくれなかったので何も知らない。
終戦に伴い、私が赤ん坊のとき鹿児島に引き揚げた。

 
天津

抱いてる子はヒロミか?

 
母

ナンバーがいかにも中国

夫婦仲

子供を6人もこしらえた割には夫婦仲はいいとは言えなかった。
特にかきもち屋を廃業して呉服町から鴨池に引っ越してからは金に困っていたせいもあり、しょっちゅう喧嘩が絶えなかった。
父はどちらかといえば気長でトロいほうだったし、母は短気で勝ち気だったので水と油なのかも。
私が16歳で家を出る決心を固めたのも両親のいさかいを見るに耐えなかったからというのも理由の一つだった。
父は口下手で口では母に敵わなかったので、喧嘩になると口より先に手が出ることが多かったらしく、アキコ叔母さん(母の妹)の話によると呉服町にいた頃、 父の暴力を受けて母が何度か近くに住むアキコ叔母さんのところへ逃げてきたとのことだった。
二人だけで写っている写真を見ると、全ての写真で何かよそよそしく、冷たい空気が流れているのを感じる。

 
高千穂峡

微妙な距離感

 
東尋坊

お互いにそっぽを向いている

酒癖

父はあまりお酒に強いほうではなかったみたいで、毎日飲むということはなかったが、たまに飲むと少しの酒で荒れた。
酔っ払うと「クガツニジュサンチャ アサヤマアケテ」という歌詞のいつも同じ歌を大声で歌った。
いまでもその歌の歌詞と節を覚えているのは、その歌がでるときは決まってその後に粗暴になり、母や我々子供はちょっとしたことで殴られたからだ。
外で飲む機会は少なかったが、たまに外で飲んでも人と喧嘩したり、バイクで事故ったりと酒癖は良いとはいえなかった。

仕事

呉服町に住んでいた頃はかき餅屋をやっていたが、戦後のお菓子類の乏しい頃でもあり、美味いとの評判も得て、 私が幼稚園に通っていた頃から小学低学年頃までは結構繁盛していて、一時は人を雇うほどの景気だった。
かき餅はもち米を炊いて平餅を作り、小さく薄く切って乾燥させて醤油をつけて焼くものなので、餅を搗く機械があった。
その機械を使って年末には賃餅を搗いていたので、暮れの1週間ほどは近所から注文が殺到してとても忙しく我々も手伝わされた。
世の中に物資が豊富に出回るようになるとかき餅もあまり売れなくなって商売も行き詰まり、 私の中学2年のときに廃業して借家だった呉服町から鴨池町に引っ越した。

 
クリスマス

従業員と一緒に

 
クリスマス

お手伝いの方の家族と一緒に

鴨池町では父はNHKの訪問員をやったこともあった。
担当地区を回ってアンテナを見つけてはNHKの聴取料の契約を迫る仕事だ。 これは客に嫌われる仕事だから結構いい収入になったようだが、 お客とのトラブルも多かったようであまり長続きはしなかったようだ。
手に職がないので日雇いをやってた時期もあった。

母は内職や生命保険、トヨタ家庭用品のセールスなどをやっていたが、おべんちゃらを言えない性格なので営業が向いているとは思えなかった。
お客に断られて、玄関のドアを蹴飛ばして帰ってきたこともあったと言っていた。

父の仕事としては牛乳屋が一番長く続いた。
おそらく20年以上はやっていたものとおもわれる。
私が埼玉に勤め始めて3ヶ月くらい経ったとき、父はバイクで事故って足を骨折したので、私が急遽鹿児島に帰って1ヶ月ほど牛乳配達を手伝ったこともあった。
牛乳屋

田上町の家で

母の病気

母は病弱ということはなかったが、頑健というほどでもなく、私が小学2、3年の頃には病名は知らないが一時入院していたこともあった。
貧乏もしていたので満足な食事もできなくて、私たち子どもたちは見舞いと称して代わる代わる食事時を見計らっては病室に押しかけ母の食事を分けてもらった。
今にして思えば、病人の食事を横取りするなんて何と恥知らずのことをしたものか。
40代後半からはリュウマチに悩まされていた。手足が変形し、激しい痛みもあったようだ。
70代半ばに大病を患って一時危篤状態に陥り、来賓の挨拶を頼まれていた部下の結婚式の前日、急遽帰省したこともあった。
それからは盆暮れの休みには必ず車で帰省したので、埼玉鹿児島間は20回以上往復したと思う。
晩年は口から食事を摂ることができず胃ろうにしていたので、段々喋ることもできなくなって、ボケも進んだようだ。

 
母

愛犬ピスと

 
母

大病後で大分やつれてしまった

父の悪癖

父はご飯を食べた後爪楊枝を使うのが常であったが、その爪楊枝でほじくり出した歯くそをいつも茶碗に擦り付ける癖があった。
姉が最も嫌っていた癖で、いつも怒っていた。
ある日、いつものように歯くそを擦り付けるのを見て姉が「わがで たもったたっで たもらんね(自分で食べたんだから口に入れなさい)」 と言うと父は「きっさねわいよ(汚いじゃないか)」と言ったので姉は「きっさねたあ こっちじゃが(汚いのはこっちだよ)」と言って激怒していた。

父は鼻が悪く、いつも騒々しい音を立てて一日何度も鼻をかんだので、家中の者のひんしゅくを買っていたが、 父が鼻をかむたびに、母は「がんたれ鼻が」と罵っていた。
鼻をかむだけならまだしも、父は大きな汚らしい音を立てて鼻汁を喉に吸い込み、それを口から吐き出すのだった。
これは流石に気持ち悪くて、父の悪癖の中でも最たるものであった。

姉

姉は一人で両親の面倒をみていた

介護

54歳の秋、姉から電話があり、「乳がんが肺に転移して余命がそれほど残されていないので、両親の介護のために帰ってきてほしい」とのことだった。
社長に相談して形としては退職扱いとなり、リモートでできる仕事を続けるということになり、鹿児島に帰った。

父はボケが進行して、おねしょをするので私が夜中の3時頃起きてトイレをさせるのが役目になったが、 そのうち一度では漏らしてしまうので、1時と4時の2回起こすことにしたがそれでも何度か失敗した。
それと毎日の散歩に付き添うのが私の仕事。

母は寝たきりなので毎週訪問介護の人たちが来てくれてお風呂に入れてくれたが、オシメ替えは姉や妻の担当だった。
何年も寝たきりだったが、しょっちゅう体位を変えたり、車椅子に移したりしていたので全然床ずれはできていなかった。
母の食事はもちろん胃ろうだったので、楽といえば楽。

姉は定期的に病院に通っていて、病院に行って抗がん剤を打った後は体調が悪くなって辛そうだったが、 体調の良いときは普通に家事もできるし、私たちが帰って安心したのか幸せそうだった。

 
介護

両親と妻

 
散歩

日課の散歩

反面教師

不幸なことに私は父を尊敬したことがない。
むしろ若い頃は父のようにはなるまいと自分自身に言い聞かせていたくらいだ。
父は酒癖が悪く、人付き合いが下手で、商売相手やお客さんともしょっちゅうトラブルを起こしていたし、 優柔不断で大事なことを自分で決められず母にいつも「いけんすかい(どうしようか)」と相談していた。
また、仕事がキツイと直ぐに弱音を吐いたし、仕事の愚痴を家族に聞かせたりで、男としてのプライドは無いのかと言いたいくらいだった。
私が結婚以来、家で仕事の話を一切しなかったり、大事なことも妻に相談せず一人で決めたり、 仕事で疲れたなどと口が裂けても言わないと決めていたのは、父のようになりたくないという気持ちからだった。

そういう父を軽んじる気持ちが変わったのは、介護のため退職して鹿児島に帰ってからだった。
少しボケた父の言動に何か可愛らしさも感じて、すごく優しい気持ちで接することが出来た。
また父が亡くなる前に病院に入院していたとき昼間は私が付き添っていたが、父が看護婦さんたちに意外にも人気があるのを知って驚いた。
父と病院内を散歩していると何人もの看護婦さんが声を掛けてきたし、一人などは父と腕を組んで歩いてふざけていた。
その看護婦さんが「○○さんはこんなに背が高かったんだ」と言ったら父は「あんたはこげんちんけかったとけ(あなたはこんなに小さかったの)」と返していた。
後ろから見ていてとても微笑ましい光景で心が和んだ。

父と

父の認知症テスト

鹿児島に帰ってみると88歳の父は想像以上に衰えていて、ボケも進んでいるようだった。
母が寝たきりなので父まで寝たきりになってはたいへんと、毎日の散歩に付き合って足が衰えないようにしようとしたが、段々距離が短くなり、 そのうち杖が必要になり、しまいには散歩を嫌がるようになってしまった。
ボケの進行も遅らせようと思って、テレビに出てる人の名前を聞いたり、写真を見せて家族の名前を聞いたりすると8割方は間違えるのだが、 祖父の名前だけは何度聞いても即座に「トクタロウ」と答えるのが不思議だった。
父にとって祖父はどういう存在だったのだろうと思ったが、答えが得られることはなかった。

父の死(2000年5月18日)

リモートワークのほうも順調で、メールで仕事のやりとりをしたり、時々は埼玉に戻って現場でしかできない仕事をこなしたりしていた。
そのうち父が腎臓を悪くして入院することになった。
昼間は私が付き添うことになったので、病院にPCを持ち込んで仕事をした。
埼玉に戻る前日、病院の院長から「高齢なので厳しいとは思うが透析をやりますか」と聞かれた。
私が「必要なんですか」と尋ねると、院長は何故かしら怒ったように「それはあなたが決めることです」と言ったので、私は「それではお願いします」と言った。
後で妻が、透析が苦しかったのか父が涙を流していたと言ったので、院長は透析をやっても本人を苦しめるだけで 治療効果はないということを言いたかったのだということがわかった。
翌日埼玉に戻って事務所にいたとき、父が亡くなったという電話があった。
夕方の飛行機で鹿児島に帰ったが、家に着いたときは遺体は既に病院から運ばれていた。
私は父の枕元でかける言葉も見つからず、ただ涙を流した。

翌日のお通夜には子供たちも、父の妹のキヌエさんも駆けつけてくれた。
葬式は玉里の教会で行ったが、私の喪主挨拶は涙で言葉に詰まり散々な出来だった。

葬式

母の死(2000年10月17日)

父の遺体が家に戻ってきたとき、アキコ叔母さんに父が亡くなったことを知らされた母は「どの子が?」と言ったそうだ。
母もその頃は大分ボケていたようだ。我々ともほとんど会話をしなかったが、それはボケを隠すためだったのではないかと私は思っている。

母も亡くなる前は父と同じ病院に入院していた。
危篤状態になったとき妹二人も連絡をしたので駆けつけたが、いよいよという時に母は身体を起こして、意外にしっかりとした目つきで一人一人の顔をじっと見つめた。
それは何か、みんなの顔を記憶に留めようとするかのように見えた。
ひと通りみんなの顔を見渡すと、静かに身体を倒し、しばらくして息を引きとった。
私はその時は涙が出なかったが、後々この場面を思い起こすと目頭が熱くなる。

教会