おんじょどいの小屋

高校時代の思い出

ラ・サール高校 入学

なんとか進級試験をパスして高校に進学したが、今にして思えばラ・サール中学校卒業で公立高校の入学試験を受けて 分相応の高校に進んだほうがよかったのかなと思うこともある。
そしたらまた別の人生を歩んだことになって、今の自分ではなかっただろう。
どういう人生になったかと想像することもあるが、かといってこれまでの人生を悔やんでいるわけではない。

ラ・サール高校 中途退学

高校に進学しても成績のほうは相変わらず低空飛行で下から数えるほうが早かった。
おまけに学費の支払いも滞り、頻繁に事務所から呼び出しがかかった。
成績は悪いは学費は払えないではラ・サールにいる意味はないと判断して、高校1年の秋頃中退することを決めた。
最初は公立高校に転校することを考えて、さる公立高校に父と相談に行ったが、既に2学期からの編入試験の時期を過ぎていたので断られた。

上京

両親は翌春に公立高校を受験することを考えていたのだろうが、私は密かに鹿児島を離れて東京で苦学することを計画していて、 新聞広告で「高校、大学への通学可」とあったので東京都下の新聞販売店に求職の手紙を書いたところOKの返事をもらった。
それから両親に打ち明けた。もちろん大反対で手こずったが、なんとか最終的にはしぶしぶながら了承してもらって、 布団袋を先に送り、一人汽車で旅立った。
その頃は蒸気機関車で煙に悩まされながら、しかも座席が取れなかったので通路に立ったり、座ったり、 寝たりしながら28時間くらいかけて翌日の夜7時頃ようやく東京に着いた。
勤務先が中央線沿線なので新宿が起点だと思って、事前の連絡で私は新宿で待ち合わせと書いたのだが、 先方から慌てて返信が来て、東京駅の着いたホームで待てとのことだった。
無知とは恐ろしいものだ。

新聞配達

新聞屋の一日は、朝3時半くらいに起きてまず駅に新聞を取りに行くことから始まる。始発電車が走る前に新聞輸送の電車が駅に着くのだ。
新聞を販売店に持ち帰ると、配達員が担当地区の部数を数えて、それにチラシを折り込んで配達に向かうことになる。
配達が終わると朝飯だ。朝食が終わったら学生は学校に出かけるし、それ以外の者は自由時間だから寝るもよし、 遊びに出かけるもよし、自由だ。昼飯は出ない。
毎日ではなかったが、時に拡張という仕事が午後から入ることがあった。新聞を取りませんかという営業に歩くわけだ。
拡張員というプロに同行して担当地域を案内することもあった。
夕刊は3時頃駅に取りに行ってまた配達が始まる。

寝るところは蚕棚みたいなもので、入り口をカーテンで仕切った畳一枚ほどのスペースが左右に2列2段並んでいるところだった。
風呂は近くの銭湯に出かけた。

モデルガン

初めて貰った給料でわざわざ新宿まで買いに行った物は、なんとモデルガンだ。
いかにガキだったかがわかろうというもの。
その後に空気銃も買って雀を撃ったりしたものだが、銃や刀剣は好きだった。今でも好きかも。

受験失敗

上京して翌年春に東京都立立川高校の入学試験を受けたが見事不合格。
立川高校も有名な進学校であることを知らず受験したが、ラ・サール中学校卒といえど劣等生が楽に合格するほど甘いものではなかった。

証明用写真

受験のときに使った証明用写真

東京都立武蔵高校 定時制 編入

立川高校の入学試験に不合格となり予定が狂ったので、東京都立武蔵高校定時制の2学期からの編入試験を受けて、 なんとか1年遅れの再スタートを切った。
面接のときに「どうして受験したのか」と問われたので「行くところがないから」と答えてしまって、 後で大いに後悔したが試験はあきれるほど簡単で、編入を許された。
1年生は2クラスで担任はM先生、後で聞いた話によると試験の成績が抜群だったのでとうしても 自分のクラスに欲しかったので強引に引っ張ったと言われた。
ラ・サールと定時制の学力の差は歴然で、怠け癖が益々助長されて勉強は全くしなかったし、 出席日数も落第しない程度にズル休みをして意義のない高校生活を送った。

バイク

仕事にも学校にも慣れた2年生の頃には店に置いてあったバイクを無断で乗り回していて、学校にも時々乗っていった。
もちろん無免許だったが、ある日学校帰りにN君を後ろに乗せて走っていたら突然目の前に砂利の山があって、 避けきれずに乗り上げて派手に転んでしまった。
幸い二人とも怪我もなく、バイクも無事で何事もなく済んだが、危ういところだった。
この頃から無免許運転の常習者だった。

解雇

新聞店の配達員は7、8人いたが中には給料の前借りをしてトンヅラを決め込む者もいた。
そのトンヅラを手伝ったことがあった。トンヅラするには二階から布団袋や洋服などの荷物を下へ降ろさなくてはならないが、 玄関を通るわけにはいかないので、私ともう一人の同僚が二階からロープを使って荷物を降ろしてあげた。
翌日、朝刊の配達に私だけ起こされなくて、寝てる間に幹部の一人が配達したみたいだった。
その後経営者の娘婿から呼び出されて解雇を宣告され、午前中に荷物をまとめて出て行けと言われた。
突然のことで戸惑ったが、荷造りをしてとりあえず駅に預けて母に電話した。
母は猛烈に怒って電話で抗議すると言っていたが、それより今晩泊まるところがないがどうしようと言ったら、 新宿にタエコ叔母さんと一緒に住んでいたケイコ叔母さんに連絡をつけて泊まれるようにしてくれたので、 今まで一度もあったことがないケイコ叔母さんのところに泊まった。
そこで一晩厄介になって、翌日同じ中央線沿線の新聞販売店に急遽住み込んだが、ここはひどいところだったので 1ヶ月もいないで中野区の牛乳販売店に移った。

牛乳販売店

牛乳配達は自転車の後ろの荷台に牛乳箱2、3箱、ハンドルの両側に牛乳瓶が30本くらい入る袋を2つ乗せて配達するので脚力は強くなるし、 毎日工場から配達される牛乳箱を冷蔵庫に積んだり、運んだりするのでかなり体力がついたような気がする。
牛乳も毎日2、3本飲んだ。自分で飲む牛乳は本来有料になるが、ただで飲む方法を教えてもらった。
薄いカバーをつけたまま牛乳瓶の底を手のひらで叩くと紙の蓋だけが外れるので、中身を飲んでまた蓋を閉めてカバーをつけ、 牛乳瓶を割ると破損瓶としてカウントされないのだ。

お店の慰安旅行で大洗海岸に海水浴に出かけたときのこと、台風の余波で海は荒れていて大きな波が打ち寄せていた。
折角来たというので海に入ったが私も2度ばかり大波にもみくちゃにされた。
なんとその日一緒に行った同僚が二人溺れて亡くなった。
二人とも泳ぎが得意でなくて、大波に揉まれてパニックになって心臓麻痺を起こしたらしい。

牛乳屋

牛乳屋の同僚と

ホタル

3年生の夏休み、親友のN君に誘われて彼の故郷宮城県へ一緒に行った。
実家は一関の農家で電車をバスに乗り継いだ山の中だった。
バスを降りるとあたり一面に白く光ったものが飛び交っていたので、びっくりして彼に尋ねるとホタルだと言う。
ホタルを初めて見たし、それも数え切れないくらいのホタルが飛び交っていたのに感動した。
後にも先にもこれほどのホタルの群舞を見たことはない。

彼の実家では蚕を飼っていた。広い二階の一面に蚕棚が並んでいて、蚕が桑の葉を食んでいる音がザワザワと響いて壮観だった。
お母さんがいろいろ説明をしてくれたのだが、東北弁なのでほとんど意味がわからなかった。

 
松島

松島

 
仙台

仙台の七夕

猊鼻渓

N君が近くの猊鼻渓に案内してくれた。
猊鼻渓は両側が切り立った崖になっていて、その細い渓流を舟で遊覧することができる。
渓流は浅くて、たくさんの魚が手の届くほどのところを悠然と泳いでいる風光明媚なところだ。
船頭さんが途中、得意の喉を聞かせてくれるのも趣があっていい。
私たちはN君の弟と3人で舟を借りて漕ぎ出した。
行きは快調に舟を漕いでいたが帰りに舟底から水が漏れ出てきて、たちまち浸水してしまった。
背の立つくらいの浅瀬なので溺れる心配はないが、これでは帰れないので困っていると他の舟の船頭さんが乗せてくれて事なきを得た。

 
猊鼻渓

猊鼻渓

 
猊鼻渓

おや? ビールが見える

司法書士事務所

牛乳配達の仕事はたいへんだったが楽しくもあり私としては満足して働いていたが、なにせ遠いので学校のほうは遅刻・欠席が多くなってしまった。
心配したM先生が吉祥寺の司法書士事務所への就職を斡旋してくれた。
事務所の隣が法務局で、私の仕事は依頼のあった登記簿謄本を複写で書き写すことだった。
字の汚い私には向かない仕事だったかもしれないが、さして苦情も言われず勤めた。
法務局の周りには司法書士事務所がいくつも事務所を構えていて、若い従業員も多くて楽しかったし、 また法務局の職員にも可愛がられて、人間関係では最もストレスのない時期となった。

 
司法書士事務所

司法書士事務所の慰安旅行

 
法務局

法務局の職員と野球

東京オリンピック

3年生のとき東京オリンピックが開催された。
東洋の魔女と謳われた女子バレーボールの決勝が行われたのは、折しも中間試験のときだったが私はテレビで決勝戦を観ることを優先して、 登記所の宿直室で宿直の職員と一緒に観ていた。
ところが隣の事務所の電話が鳴っているので出るとM先生からで、「何やってるんだ」と言うので正直に 「バレーボールの試合をテレビで観ている」と答えたらたいへんな剣幕で怒られた。
そして「明日始業前に職員室に来い」と怒鳴り、受話器を叩きつけるように切った。
翌日、学校をやめる覚悟で恐る恐る職員室に行くと、M先生は意外にニコニコしながら「試合は面白かったか?」と言って、 たいして怒らなかったので学校をやめずに済んだ。
さすがM先生の人心掌握術はたいしたものだと感心した。
M先生は私の恩人の一人だ。

ピアノ

司法書士事務所に移ってから武蔵境駅の近くに4畳半一間、台所トイレ付きの4軒長屋の一つを借りて一人住んでいたときのこと、 通勤の電車の中吊り広告で小さなアップライトピアノが7万円くらいで売っているのを知り、月賦で購入した。
駅の近くのピアノ教室に通って、半年ほどでバイエルをマスターしたので教室はやめた。
日曜日の朝からピアノを弾いて隣のオヤジに怒られたこともあるくらい熱心にピアノを弾いていた。
高校を卒業して鹿児島に帰るときまだ月賦は残っていたが、メーカーに引き取ってもらった。

初恋

クラスに好きな子ができた。
それほど美人というわけではなかったが、気さくで明るく、編入した私に気さくに声をかけてくれた。
クラブ活動もその子のすすめで彼女が入部していたバスケット部にしたくらいだ。
特に付き合いを求めたり、デートに誘ったりすることはなかったが、3年生のクリスマスには彼女とN君ともう一人の女の子の4人で 私のアパートで鍋を囲んだこともあった。
そのときに貰ったクリスマスカードに思わせぶりなことが書いてあったので、てっきり彼女も私を好いていてくれているものとばっかり思っていた。
ある日、彼女から相談があるとのことで喫茶店で話を聞くと、お母さんが病気になり家の手伝いなどで学校をやめなければならないということだった。
それを聞いて私は好きだということを伝え、学校をやめないよう懇願した。
ところが彼女の返事は「私はバスケット部の主将と付き合っている」とうものだった。
それならそんな大事な相談は彼氏にしたらいいだろうに、なんで私なんだと思った。
結局私の初恋は単なる私の思い込みだったということがわかった。

北八ヶ岳

4年生の夏休み、M先生が修学旅行として希望者を北八ヶ岳に連れて行ってくれた。
クラスの3分の2が参加した。旅館に一泊、山小屋に一泊の楽しい旅行となった。

 
北八ヶ岳

北八ヶ岳 修学旅行

 
北八ヶ岳

もててる!

私もハイテンションで行きの列車の中からおおはしゃぎだったので、女の子たちから「○○さんってこんな陽気な人だったの」と驚かれた。
あまり学校にも来ないし、無口で何を考えているかわからない何か特異な存在として、日頃は煙たがられていたのかもしれない。
 
北八ヶ岳

またまた、もててる!

 
北八ヶ岳

北八ヶ岳

東京都立武蔵野高校 定時制 卒業

高校生活を満喫というわけにはいかなかったが、なんとか卒業を迎えた。
N君は卒業式で涙を流していたが、禄に勉強もせず、出席日数も留年にならない程度に休んでいた私に泣く資格はなかった。
N君は日大に合格していて前途有望だったが、私は大学に進学する気もなかったし、東京での就職活動も積極的には行わず、 司法書士事務所の慰留も断って、なんとなく母のすすめに従って無気力に鹿児島に帰ることにしていた。
ラ・サールと武蔵高校定時制の学力差に愕然とした編入の頃から自暴自棄に陥り、あたら花の高校生活を無為に過ごしたことは大いなる反省点だ。

ラ・サール在学中は、私の人生で一番惨めで情けない時を過ごした時期でもあったが、一方人生を左右する高校中退という 決断を自らの意思で下したことは後悔はしていないし、結果としてそれほど悪くはなかったと思っている。
高校中退が最悪の結果にならなかったのは、ひとえに都立武蔵高校の担任のM先生のお陰であることは肝に銘じている。

卒業式

卒業式