幼少期の思い出
夢か?幻か?
幼児期の記憶が何歳くらいからとどまるものかわからないが、時によりおぼろげに思い出すのは、
薄暗い部屋におじいさんが後ろ向きに座っていて、その向こうに窓が空いているという光景だ。
その窓はガラスのはまった窓ではなく、板張りで、突っかい棒で開ける式の窓でいわゆるバラックにあるような窓だ。
ただそれだけの一瞬の映像だけど度々目に浮かぶので、2、3歳くらいの記憶ではないかと思う。
中国から引き揚げてきたばかりの頃、一時桜島に住んでいたことがあると聞いていたので、その頃の記憶かもしれない。
おじいさんは祖父なのではと思うが、今となっては確かめようがない。
ザビエル幼稚園
幼稚園の思い出はあまりないが、名前は忘れたが好きな子がいて、いつもその子のそばに居たような記憶がある。
遠足は前年に開設されたラ・サール高校(当時は谷山市、ラ・サール会修道院敷地内)だったが、両親の仕事の都合か?付添はおばあちゃんだったようだ。
その頃から、母は私をラ・サール高校に進学させるという夢を描いていたに違いない。
何かしらのいたづらをして、先生に「そんな子は家に帰りなさい」と怒られたので、さっさと一人で帰ってきてしまって先生や家族にあきれられた。
お絵かきで青い背景にいびつな白い四角の絵を描いて、これは何と言われて「豆腐」と答え、まわり中に笑われたことを覚えている。
絵と字が拙いのは生まれつきみたいだ。
クリスマスにはキリスト誕生の場面を皆で演じた。もちろん本当はキリストの養父ヨセフをやりたかったのは言うまでもない。
ヨセフの役はクラスでもそれほど目立たない子が射止めたので大いに妬ましかった。
![]() 好きな子のとなりに |
![]() クリスマスの劇 |
ルース台風
1951年10月鹿児島県に上陸したルース台風は今まで経験した台風の中で最も恐ろしいものだった。
もちろん、幼かったせいもあるが。
すさまじい暴風雨が吹き荒れ、父と母は雨戸が飛ばされないよう必死で雨戸にしがみついていたし、
屋根の平木が次々に剥がされていって段々空が見えてくるので、私たちは押入れの中で泣きながら震えていた。
あの台風を経験した後ではその後の台風にはそれほど恐怖を感じなくなった。
おばあちゃん
呉服町に住んでいる頃は庭の一角にある小さな家にサダおばあちゃんが一人で住んでいた。
元々呉服町の家はおばあちゃんの実家であるマツダ家のものを借りていたものと思う。
マツダ家は格式のある家柄だったらしく、おばあちゃんが嫁入り道具として持ってきた箪笥は立派な金具のついたもので、
西伊敷町での父のお通夜に来たある人がこの箪笥を見て、欲しいと言ってたくらいだ。
5、6歳の頃その箪笥から錆びた脇差を見つけたのには驚いた。
おばあちゃんは着物の仕立てで生計を立てていたみたいだが、私が夫であるトクタロウおじいちゃんに似ていると言って
「とったろさん、とったろさん」と呼んで可愛がってくれた。
私たちはしょっちゅう「ばあちゃん、五円呉いやい」と言っては小遣いをせびっていたのを思い出す。
ご多分に漏れず嫁姑の仲は悪く、同じ敷地内に住みながらお互いに行き来することはなかった。
呉服町から鴨池町に越した後は会うこともなくなり、私が22、23歳の頃施設で亡くなった。
お葬式で、父が一人涙を流していた後ろ姿を思い出す。
![]() 祖母 |
![]() 祖母の納骨 |
オート三輪で事故
家の前に停まっていたオート三輪に乗っていたずらしていたら、突然動き出して荷馬車にぶつかるという事故を起こしてしまい、大いに怒られた。
エンジンがかけっぱなしだったのか、記憶が曖昧だが。